【水俣病の歴史を辿ると放射能やワクチンの行方も予測できる~①相思社の水俣病歴史考証館】
ゴールデンウイーク、ゆっくりできましたでしょうか。
私は水俣病の資料や書籍を見たくなり、水俣市立水俣病資料館に行きました。
数年前にも訪れたことがある資料館はすっかりリニューアルされていて、きれいな写真やパネル展示に変わっていました。でも全体的に具体性に乏しく、なんの実物もなくオブラートに包まれたように感じました。そして加害企業チッソの現行製品の数々の展示がごっそりなくなっていました。案内所でそのことを尋ねてみたところ、「展示物が古くなっちゃったので去年リニューアルしたんですよ」の返事。びっくりしました。資料館や博物館は『古いものを保存して残していくのが重要な仕事』なのではないでしょうか。加害企業が何を製造販売していて私たちの生活の中でどう使われているか、という展示は重要ではないのでしょうか。愕然としている私を見て、案内の方は「相思社さんの水俣病歴史考証館ならあるかもしれません」と教えてくれました。ソウシシャ?もう一つ資料館があるの?とにかく行ってみることに。
ネットで調べた住所をナビに入れて車で行くと、そこは車がすれ違えないような細い道で、周囲には非常に古い2階建ての公営住宅のような長屋の建物がたくさんありました。漁業という生活手段を追われ、病気を発症し困窮を極めたと言われる水俣の人たちの生活の歴史を思いました。さらに細い坂道をゆっくり車で登っていくと、古い民家の庭先のような狭い駐車場があり、そこへ車を停めました。
庭先に出ていた若い女性が走り寄ってきて笑顔で「見学ですか?」と話しかけて案内してくれました。よく見ると民家のようなその資料館は古い組積造(ブロック塀で囲んだだけの壁なので水平方向の力や地震に弱く、現在の住宅建築ではもう見られない)。さっきまで滞在していた、大きくて綺麗で新しいコンクリート造の市立資料館とはかけ離れた対照的な建物でした。しかし館内の電気をつけてもらいギシギシときしむ扉を開けると、そこは水俣の歴史の実物が溢れるように展示されていて、息が止まるような、胸の詰まるような空間がありました。
当時の漁業従事者たちが使っていた船や道具、水俣湾での船舶の出入り禁止を告げるブリキ看板、加害企業チッソとチッソ城下町であった水俣の歴史、被害者さんたちが訴えて廻った際に掲げた『怨』という字が書かれた黒いのぼり旗、スローガンがたくさん書かれた服の数々、猫実験の小屋、加害企業チッソが何をどう製造して水銀を海へ流してしまったのかという図・・・。加害企業の現行製品の数々もありました。塩化ビニル、ポリエステル、ヒアルロン酸、ポリエチレン、ソルビン酸、香料、化学肥料、有機シリコン化合物、複合繊維、液晶部品・・・。つまりコンタクトレンズもウインナーやハムの保存料もかき氷の香料もトイレの芳香剤もコンビニやスーパーのレジ袋も使い捨てマスクも化粧品もこの企業の製品で、日常に欠かせないものばかり。写真をネット上にあげるのはNGとの事(想像を絶する圧力が過去も現在もあるのだと推測される)で、ツイートに写真はあげられませんでしたが、水俣病の歴史上の実物と実際はまさにここにありました。ではどうして行政は、ここを資料の拠点としなかったのでしょうか。それは水俣病の歴史が、被害者側と、加害企業チッソ・行政側との闘いの歴史であり、相思社は水俣病患者に寄り添う団体だからでしょう。真実とはいつも、そういうものなのでしょう。
今日も皆様の冷蔵庫と食卓が安心と幸せで一杯になりますように。同じ空の下、心から心から願っています。
平成30年5月8日
Edit by 山下 理江