【富久屋さんのおはなし】
1月に開催した鹿児島在来種小豆の復活クラファン。たくさんの応援をいただきました。
返礼品の一つ【1860年創業 薩摩菓子所 富久屋さんの煉羊羹と和菓子詰め合わせ・かのや姫小豆セット】を6月になってやっとお届けすることができました!
今回はこの富久屋さんのお話をご紹介します。ちょっと長いお話ですが、素敵な実話なのでぜひぜひ読んでください!
1860年創業で、現在は6代目の北村祐一さんが代表を務める老舗の和菓子屋さんです。
全国の物産展に出展している祐一さん。お店番はお母様の馨(かおる)さんが主にされています。
馨さんは富久屋さんの6人姉妹の末っ子として生まれました。「6人目こそ絶対男の子で跡取りに!」と期待されていたので名前も『馨』という男の子向けの字だったそうです。
女の子でガッカリされた馨さんでしたが、その後はとても可愛がられ大切にされて育ち、東京の短大に通うため青山に住んだことがきっかけで知人を通して北村秀敏さんと出逢い結婚します。
しかし当時の秀敏さんはなんと東映の売れっ子監督。「特別機動捜査隊」「人造人間キカイダー」「がんばれ!!ロボコン」「仮面ライダー」「ゴレンジャー」「キイハンター」などの監督を務めていました。
「芸能界関係者と結婚することは許さない。綺麗な女優さんたちに囲まれているから絶対に浮気するから」と結婚に大反対していた馨さんのお父様に、秀敏さんは富久屋さんを必ず継ぐことを約束し、1年がかりで結婚の許しを得ました。
この秀敏さんの生き方が、とんでもなくカッコいいんです。
Wikipediaの【東映生田スタジオ】にも北村秀敏さんのことが掲載されています。
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北村秀敏(きたむらひでとし)
フリー。1931年5月20日生まれ。高知県出身。日本大学芸術学部卒。
宝塚映画・富士映画で助監督を務めた後、東映テレビプロのテレビドラマ『特別機動捜査隊』で監督としてデビュー。一方、助監督時代には新東宝で映画脚本の執筆も行っていた。以後、NETのテレビドラマを多数手がけた。
平山がプロデューサーを務めた『河童の三平 妖怪大作戦』に監督として参加した後、平山からの要請を受けて『仮面ライダー』にも参加。初期数本を手がけた後、『特別機動捜査隊』にローテーション監督として復帰するが、再び平山の要請により『人造人間キカイダー』でパイロット監督をつとめた。以後、『特別機動捜査隊』と並行して平山プロデュースの特撮テレビドラマで監督を務めた。
『がんばれ!!ロボコン』終了後の1977年に体調を崩したため、鹿児島で療養生活を送る。療養が長引いたため、そのまま事実上引退する形となった。
なお、北村は2016年5月25日に亡くなっていたこと及び、鹿児島県鹿屋市の彼の邸宅から『人造人間キカイダー』や『特別機動捜査隊』などの1960年代~1970年代の東映製作テレビ映画作品で、東映社内でも現存していない作品の脚本がこのほど発見されたことが報道された。
実はこのWikipediaにはひとつ素敵な嘘が書かれています。
『がんばれ!!ロボコン』終了後の1977年に体調を崩したため、鹿児島で療養生活を送る。療養が長引いたため、そのまま事実上引退する、という箇所です。
当時監督として絶頂期に登りつめようとしていた秀敏さんが、馨さんのお父さんとの約束を果たすために「体調を崩したので監督業を引退し、鹿児島で療養生活をします」と周囲についた心遣い溢れる嘘だったのでした。
そうして1977年に秀敏さんは監督の仕事をスパッと辞め、鹿児島へ来て和菓子の巨匠に弟子入りし、猛烈に勉強して本来なら6年かかる修行を半年で終わらせて富久屋さんを継ぎました。
監督としての才能を惜しむ芸能界の関係者が鹿児島までたくさん訪ねてきましたが、秀敏さんは頑として誰とも会おうとしなかったそうです。
しかし監督を諦めて和菓子職人の道に入ったわけでは決してないことは、当時の膨大な手書きのメモから窺えました。
新聞の折込チラシの裏に、ボールペンでびっしりお菓子についてのメモが書かれており、それを丁寧に和綴じして広辞苑や電話帳のような厚さの本にして数十冊も残していたのです。
秀敏さんは監督業も和菓子業もどちらも全力でその世界に身を投じ、2016年5月に病気で他界されたのでした。
秀敏さんの竹を割ったような清々しく人情味溢れる気質は、息子の祐一さんにも受け継がれています。
例えば・・・・・かごしまんまが初めて製餡する前日に、私はたまたま富久屋さんに初めて立ち寄りました。
そして馨さんに鹿屋における餡菓子の歴史を尋ねました。
どうしてそんなことを尋ねるのか不思議に思った馨さんに理由を聞かれたので、私はかのや姫小豆のプロジェクトのことを話しました。ついでに「製餡所がやっと完成して明日が初めての製餡です」と打ち明けたところ、驚いた馨さんがすぐに祐一さんに伝えました。
それを聞いた祐一さんはなんと「じゃあ、俺が明日の一日ずっとついていてやるよ」といきなり言ってくださいました。
本当にびっくりしました。
不安だらけだったかごしまんまの製餡所の初稼動は、思いがけず和菓子の巨匠が降臨したかけがえのない1日となったのでした。
話は戻ります。
秀敏さんの台本の一部はお店に展示してあります。
馨さんは今年84歳。現役で今も店番をされています。
鹿屋市にお越しの際はぜひ富久屋さんにお立ち寄りください。
かごしまんまが初日から今日まで無事に製餡できているのも、馨さんと祐一さんのおかげです。
今日も皆様の冷蔵庫と食卓とおうち時間が安心と幸せで一杯になりますように。同じ空の下、心から願っています。