平成26年3月11日(火)

Mar 11. 2014 かごしまんまだより

今日で東日本大震災から3年が経過しました。あの日いつもの日常を過ごしていた私達は、3年後にどんな思いで振り返ることになるのか想像もしていませんでした。
あの日あの1ヶ月、皆さまはどんな日常を過ごしていましたか。
私は千葉県白井市の北米系輸入住宅会社に腰掛けの建築士としていました。なぜかメープルシロップの輸入のプロジェクトをしていて、ちょうどメールを英語で苦労しつつ作成して送信するところでした。震度6の揺れの中、怖いというよりは今停電したらメール作成した苦労の1時間が水の泡になってしまうという焦りで、急いでメールを送信しました。机上や棚の書類やファイル、あらゆる色々なものが次々に床へバッサバッサと落下しました。すぐに仕事を中断して子供達をこども園へ迎えに行きました。園の子供達は全員防災頭巾を被り屋外避難してバスに乗って駐車場で親の迎えを待機していました。頭巾姿の子供達を見てふと、戦時中みたいだなと思いました。当時は印西市の新興住宅地に住んでいたのですが、その住宅地内の公園にはたくさんの人々が避難していました。
それから福島原発が爆発し、しばらく余震が続き、ガソリンスタンドに長い行列ができて、ホームセンターからは水がなくなりました。夫や鹿児島に住む両親からは鹿児島に避難を進められましたが、平凡な日常を送っていた私にとって「避難」はどこか非現実的な、自分のこととして考えられない事でした。チェルノブイリ事故や東海村の臨界事故の被害をテレビや本で知っていたのにも関わらず、当時のTVの官邸発表や有識者の楽観的な意見に流されて避難できずじまいでした。でも心の中ではどこか危険信号が点滅して不安の毎日でした。洗濯物を外に干すのを一切やめました。西日本の野菜や食材ばかりを探して買いました。ガイガーカウンター(放射線を測る線量計)も購入して自宅の庭や公園やこども園を測ってみると0.6などという高い数値が出て、それをチェルノブイリ事故と照らし合わせて愕然としました。
そんななか鹿児島の両親から送ってもらった段ボールを開けると、たくさんの水や野菜や食料が愛と一緒に詰まっていました。「なんてありがたいのだろう、なんて幸せなのだろう」と心から思いました。両親は鹿児島から定期的に水や野菜や食料をたくさん送ってくれました。そのことにどんなに救われたか、言葉にできません。
そうして避難を迷いながら悶々と過ごしていたその年の初夏のある日、親から1本の電話があり、父が膵臓がんで既に転移があって長くない事を知らされました。その時になって私は恥ずかしながら初めて自分の人生と向き合い、後悔しない生き方とは何か、真剣に考えました。まず、ずっと迷惑をかけっぱなしで親孝行していなかったので父親を看取ろうと思いました。そして両親が送ってくれた愛情いっぱいの段ボールを、全国の同じ気持ちの人たちに送ることを仕事にしよう、と決めました。秋には建築会社の仕事を辞め、その年の冬に子供達を連れて両親の住む鹿児島に来ました。
無我夢中で3年を生きてきました。みなさん、そうだと思います。それぞれの事情を抱え、必死に家族を守って悩んで生きてきた3年間だったと思います。あの日、多くの命が波にのまれ、多くの方々が自分の家を出ていかねばならない事態になりました。311によって多くの悲しみがあり、色々なものを諦め、捨ててきた3年間でありました。でも逆に311があったからこそ人生で一番色々なことを真剣に考えたり調べたりして今まで知らなかったことに気づけた密度の濃い3年間であったのではないでしょうか。
311より前の世界に戻りたいな、という思いも胸に湧き上がってきます。でもこの3年間を過ごしてきて、311があって色々な事に気づけて本当によかったな、という思いの方が強くなりつつあるのを感じます。

これから先も同じ思いで生きているみなさまに、少しでも喜んでいただいたり幸せな気分になって頂いたりお役にたてたりできる会社であり続けたいな。。。そんなことを思った3年目の311でした。
同じ空の下、私達はつながっています。孤軍奮闘ではありません。共に強く生きていきましょう。

Edit by 山下 理江